この街ですれ違うとき、つながる場所

”共同の仕事をするときには習慣と習慣がぶつかり合うことで、実のあるものができると思います。” 武満徹

「オペラをつくる」岩波新書より

カフェやレストランの賑わい、
お店の人だかりや駅の混雑も、
そんなありふれた東京の風景が
一瞬で消えてしまったのが2020年です。

人通りのない街はやっぱり寂しい。

いつものように、ふらっと散歩に出たい。

知らない場所ではもっと冒険したいし、
新しい人とも出会いたい。

じっと我慢だった夏を乗り越え、何年ぶりだろう。。わたしも六本木まで「遊びに」出かけてきました。
今回のお目当ては、安藤忠雄氏設計のミュージアム21_21 DESIGN SIGHTです。昔はカルチャーの街という印象のなかった六本木ですが、ヒルズのオープンを境にずいぶんとその様相も変化を遂げました。

かつての青山ブックセンターは夜中の友だったなぁ。大好きな洋書を立ち読みしたくて、夜な夜な本当にお世話になりました。でもそれ以外カルチャーらしきものとはまったく縁なしというのがわたしの記憶の中の六本木です。お世辞にも安全、綺麗とは言えなかったこの外国人御用達飲み屋街に、新国立美術館をはじめミッドタウンなど数々の文化施設が誕生し、六本木は緑豊かで住みたくなる街に生まれ変わりました。10年、20年という時を重ねこれほどのダイナミックさ、大胆さを表現できる都市は世界でも東京だけだと思っています。

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ジェンダーの問題などさまざまな質問を投げかけられます。そして自分の当たりまえ(回答)と世の中の当たり前(統計)が即、視覚的に共有されその場の参加者どうしで確認することができます。あ、ちなみに言えば目の見えない人はこれどうやって参加するんだ?

そんな六本木で現在開催中の「ルール?展」は、かつての無法地帯にはちょとイメージの合わない地味(?)で真面目(!)な企画かもしれません。世の中のさまざまなルールを取り上げ、その仕組みやあり方、成り立ちをキュレーションするというこのとても挑戦的な展覧会は教育的志向性が高い!なんというか、教科書のページをめくるような体感アートというのが行ってみたわたしの感想です。鑑賞だけするデザインやアートとは異なるフォーマットですが、体験を通じてルール全般について考えてもらおうという、その問いかけ手法そのもののデザイン性や、来訪者の参加行為を「ライブ展示」している点をパフォーマンスアートと捉えるとより魅力に気づいてもらえるかもしれません。

個人的にはとてもテンションの上がるテーマ満載の企画でしたが、こんなマニアックなもんきっとガラガラちゃうんかと思いきや。。とってもとっても賑わってました!

ルールって面白い。

わたし、実はルールというものが大好きなんです。なぜかというと、良いルールがあるとみんなが自由になれると信じているからです。でもそんなルールをつくるのは、とても難しく根気のいる作業です。そしてつくったルールをより多くの人に理解してもらい、実社会に展開していくことは思惑通りにならないこともあります。人には欲があり、また暮らしの格差から社会のニーズも多様化していて、「みんなにとっての自由」が描きづらくなっている昨今だから、こんなアートが花咲くのかもしれません。

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これは、ルールに従う様子を表現した作品です。異なる大きさの3つの箱がパタパタと倒れ、向かってくる壁の穴に収まるよう並べ替えられるシカケです。シンプルでとても面白いコミュニケーションの手法だと思いました。わたしだったら、そうは倒さないぞ!とか、考えさせられます。。

私が10年過ごしたイギリスでは、ルールメイキングはもっともっと日常的です。例えば、共同住宅にはポストがないことがあって、どうやって郵便物を分けましょうかとご近所さんと話さなければいけない。他には、地下鉄で乗客からそこに立ちたいからずれてもらっても良いかと聞かれる、とか。会社では、僕達どうやって働く?っていつも話し合います。朝は話しかけないでくれとか、今はラマダンで集中できないとか、いろんな人の不都合をみんなで相談し合います。この国の人たちには、お互いが関わることを回避する癖はありません。決められてないことは、みんなで決めよう。問題になりそうなことはとりあえず言ってみる。そこから信頼関係が芽生えていくんです。そしてその過程で人生ドラマ、泣きや笑いも生まれます。

誰かがつくるルール。みんなでつくるルール

展示の中で一番面白かったのは、葛宇路の作品です。彼は自分の名前を使って中国のあるストリートを命名し、なんと勝手に標識を出してしまいます。やがてそのストリート名は地図サービスに登録され、一般的な名称としても使われるようになるのですが、この事件を題材に、彼は通っていた芸大の卒展として事実をカミングアウト。するとメディアが取り上げ、「葛宇路」というストリート名は瞬く間に排除されることに。さらには政府の管理下に名無しストリートの命名権が置かれてしまうという、この冗談みたいな本当の話すべてが彼のアートであり社会への問いかけです。

来場者は思い思いに箱を重ねることで、展示に参加していきます。たくさんの若い人たちが興味をもっていたようでとても感激しました。

権利と、その成り立ちとに、成り行きが交差するのが都市

ちなみに先に話したイギリスでは、立っていた場所を一旦離れてもその場所にまた戻れるという暗黙のルール(?)があります。例えばパブではトイレから戻ってきた人が、「そこわたし、失礼!」と、もともと立っていた場所の権利を主張してきます。これでハーフタイム中のたばこ休憩の後でも、テレビの前のベストスポットを確保できるというなんとも不思議な習慣があるんです。なんでなんだろう?東京だと白い目で見られそう。大阪だとケンカになりそうだ。

ちなみに、たくさんの人に参加してきてほしいこの「ルール?展」は11月末までなのでお早めに。こちら↓のブログを是非参考にしてみてください。他の人のレビューは、ふむふむ、結構面白いポイントも似通るんですね!

https://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/f62f55f31be3e266fe3af98719d9310d

今回、久しぶりのミュージアムで人がリアルに集まる楽しさを再確認したような気がします。この企画はきっとオンラインだと難しい。逆に残念だったのはシニアな層が少なく、そのことには少し危機感をもってしまいました。この1年間、すべての人にコロナという共通意識が芽生えたのは暗い社会情勢の中のプラスの効用だと思っています。こんな時だからこそ、この先の社会を見据えながらルールについて今一度考えてみることは良いことなのかもしれません。お友だちと一緒に行ってお互いの当たり前を探ってみるのはいかがですか?

真夏の夜の夢

少しも寒くないわ。

エルサ(アナと雪の女王)

夜な夜なまちで頬張りつくアスクリームが好きだ。
わたしが考える都市力とはとても単純で、夏だって冬だって、最高に美味しいアイスクリームがいかに夜、まちのど真ん中で手に入るかにかかっている。シアターに行った帰り、家で食事した後、思いつき地点がどこであれ夜散歩したくなる、それも安全に道を歩ける都市にはきっと行政の努力と市民の強い意思があるにちがいない。そして一等地に、決して高いとは言えない単価のアイスクリームが、季節ものであるはずのアイスクリームが年中手に届くためには、少なくとも何度でも食べたくなる最高旨いものでなければならないと同時に、場所貸しする地主にだって文化的・社会的理解がないとこんな商売は続けられないのである。さらにそれを支えるお客にも、遊び心や世界中のこどもの楽しみを育む気持ちがあるはずで、でないと寒々しいパリの冬の夜にわざわざこんなものを買いに行こうなんて考えない。わたしはだから、いつだって訪れる都市では必ずアイスクリーム屋を探しながら道を散歩する。美味しいアイスクリーム屋があるまちには未来がある。きっとこの場所にまつわる人たちは幸せに違いない。旅人でも、住民でも。

口の中でまとわりつくこのまちのアイスクリームは独特だ。
濃厚な空気の塊と、微かな牛乳の香りが脳を興奮させる。混乱させる。
盛りつけ方だって無性に色気がある。
間違いなくこれはパリで愛されるべきアイスクリームだ。
このまちはいつ来ても色っぽい。
夏の朝露にだって、秋の夜風にだって、
パリの水分には音、リズム、視線、驚きが混じっている。
たまたま辿り着いた旅人である自分の身体と、
この場のもつ揺るぎない自信とが、また、官能的につなぎ留められる。
そしてわたしを永遠にこのまちの虜にする。

腰をうようよ震わす、不揃いな石畳。
ブレない並木道。ゆらぐまちの動線。
まちがチラ見せする合間、愛間のランドマークは歴史の不意の落とし物。
かなた遠くから雲をかき分け、
まちに囁く教会の鐘は、わたしの細胞を目覚めさせる。
沈む夕日を明日のエネルギーに変えて、
まち全体に希望を放つパンテオン。
その隣には遊ぶ人たちをまるで劇場の舞台のように演出してくれるリュクサンブール公園。
このまちには人と人のドラマが、魅せ場が、散りばめられている。
このかつての王様の玉手箱は今の時代でも健在だ。
パリは変わらず色っぽい。

夜な夜なロッテルダムで食べたピザ。お腹を引きずって歩いていたら目の前にアイスクリーム屋さん!デザートは別腹だ。
世界一かわいいアイスクリーム屋さんはここケルンに。こどもを迎えるように笑ってくれる店主のことが忘れられない。

誰かに包まれる心地よさ

素敵な思い出は、もう一度幸せになるチャンス。

エリザベス二世

これは、とある夏の日、とあるまちの公園でのスナップ。
みんな各々が陣取った場所で降り注ぐ太陽の恵みを楽しんでいる。
わたしも公園が好きだ。何するでもなく、ただただ歩き続けるわたしを決して拒まない場所。土に吸い付いていく足の感覚がとても心地よいのは、みんないつか土に帰っていく運命を身体が知っているからだろうか。
ひとつの時空にたまたま包み込まれ運命共同体となった人間も虫たちも、同じ水滴を吸いながら未来に向けて何かを一緒に模索している。今を夢中に生きている。

「毎日連れてったわよ」
そういつも母に言われて育った。
もちろん覚えてないけれど、きっと毎日毎日公園にいたんだと思う。
だから大人になって来る公園は、懐かしさというより、自然な日常を再び呼び起こすための装置。都会のスピードでずれ落ちたあばら骨を一本一本拾い、またはめ込んでは人間の二足歩行を取り戻す場所。一歩、また一歩。

「来月から南仏に行くの!」とバギーを押しながら、水玉のドレスを着たカーリーヘアーのママはスマホで話し続ける。
「ボストンまでって何時間だっけ?」散歩するパパ友が作戦会議している。
そしてわたしと友人はいつでも食いしん坊。「ベネズエラでは朝ごはん何食べるの?」
人のイマジネーションをどこまででも遠くへ飛ばしちゃう公園は、きっと宇宙空間なんだね。

ワンちゃんも赤ちゃんも、森に包まれる朝はご機嫌。
まちが一望できるこの丘は一番の人気スポット。なんだかお参りしたくなるのはわたしだけ?

華々しい日々

女性をもっともセクシーにするのは自信

―ヴィクトリア・ベッカム

ロンドンは西部地区にあるパディングトン駅。ここはヒースロー空港をはじめ、イギリス西部へ向かう鉄道の玄関口である。この駅はいつも乗降客でごった返していて、駅舎も古く、ロンドンでも昔の旅の臨場感が味わえる場所のひとつとして私は好きだ。駅の中は暗く、気の利いた店もなく、その場末な感じと不愛想さが良いのだ。北の玄関口、キングス・クロス駅は10年もの期間を経て刷新され、見違えるように近代的になったから、まだまだ古き良き趣の残るパディングトン駅は、そこに漂う哀愁が時代物の映画撮影なんかにはとても貴重なのかもしれない。と思いきや駅の裏側に出てみると、わっ、自分の記憶にあった光景は跡形もなく、一気に産業革命頃のロンドンからミレニアムへ超高速タイムワープさせられる。

運河を主役としてまちが整備され、心地よいお散歩コースに変身していたのだ。調べてみるとここは昨今、駅を中心とした再開発が着工し、あの関西国際空港を設計した建築家であるレンゾ・ピアノがデザインする一大プロジェクトとなっているそうだ。そしてまず何よりも真っ先に目に飛び込んできたのは、レストランバーとして改装され運河に停泊するこのカラフルな船!それもそのはず、ポップ・アーチストのピーター・ブレイクによる仕業なんだと。コンクリートとガラスと、スーツに革靴、ちょっとオフィス街の堅苦しさのど真ん中に♡KAWAII♡を埋め込んでしまう大胆さ。このセンスがなんともイギリスなんだなぁ。通勤途中に、散歩途中に、こんなに人の気持ちを華やがせるものは、完全にまちのアートと呼ばせてもらうぜ。

 

とっても普通なスーパーマーケットチェーンSPARのこの店舗の入り口にはお花屋さんがあって、こんな見事なフラワーアレンジメントで私たちを迎えてくれる。毎日ここを潜り抜けてお買い物することがウェディングみたい!

 

 

私をつなぎ留めるもの

自転車に乗っているとき、私はリバプールで一番の、いや、世界で一番の幸せな少年に違いない。―ジョン・レノン

普通の日曜日。けれども、めずらしく快晴!ロンドン東部の滞在先近くをお散歩していたら、私みたいにお日様に連れられて家から出てきた人たちがカフェの中に、外に、溢れかえっていた。こんな日はみんなやっぱり、同じこと考えるんだぁ。そしてこんな愛らしいカフェに巡り合えて幸せな気持ちもお裾分けしてもらう。本場とびっきりのほくほくスコーンを頬張りながらここに集う人たちをただただ眺めているだけでも楽しい。そして私の目をくぎ付けにしたのは、店の前のハート?わっ、ハート!!

こんな素敵なまちの演出を誰が思いついたんだろう。これなら自分の愛する自転車を任せたくなるし、まちのオブジェになるから行き交う人にも見てもらいたくなる。僕の相棒どうだ!って。カフェだって、そこに来る人だって、このまちの参画者はみんな表現している。だからやっぱり自転車が愛されているここイギリスでは、もちろん、自転車に鍵をかける仕草だってまちの表現にしたいらしい。自分の愛と繋がっている相棒も大切にされる場所だから、ずっとこのまちと関わっていきたいと思わせてくれる。ニクイナ。。

他にも植木鉢に自転車を括り付けるって良いアイデア!

こちらは植え込みとベンチがセット。自転車と人と緑が仕切られていてお弁当箱みたい!

見られているまち

こどもたちを正直でいられるようにすることが、教育の始まりである。

―ジョン・ラスキン

都市に暮らすひとりひとりが社会の一員として見守られていること、わたしたちは感じながら生きているだろうか?家にこもり、カーテンを閉め、スマホと見つめ合い、ネット注文した食品を宅配ロッカーから受け取る。そして自分ではない自分をネット上で自らがつくりあげ保持、培養する毎日。これで雨露はしのげるし、うまく情報を交換しながら、餓死しないように一応のこと生物としては生きていけるのかもしれない。でも一日のうちでリアルな誰かから声を掛けられ、「最近どうしてる?」「今度ごはんしよう!」って気にかけてもらい、人として潤いながら生きていけている人はどれだけいるのだろうか?まちの誰かとゆるく繋がり、共同体のなかでさりげなく見られている、気に止めてもらっている感覚は、日々の暮らしに安心と充足を与える。人として「生きていく」には案外、そこにいる自分の証をほんの少しだけ他人が感じさせてくれる何気ない空気があってこそ楽になるし、まち全体の幸福につながる気がする。そしてその互いを承認する空気があることで、みんなが素直になれてまち全体がほっとする場所になり、そこに住むこどもたちも素直に育って、やがて地元が好きな大人に成長する。毎日の見守る、気にする、声をかける、の「貯金」が将来のまちの発展に関わって来るのだ。

見守る、見守られることを、互いに心地よくする立役者として建築空間ができることは沢山あると思う。例えばここマンチェスター大学付属のアート・ギャラリーは、最近増築され、ガラスを中心とした現在の姿に変身した。人がそこで活動する様子が周りを囲む公園から、大胆に、でも上品に美しい情景として見て取れるのが良い。しっかり見えるけど、全部は見えない。森の中のツリーハウスでくつろいでいるみたいだから、見られている方も、見ていいよって気分になる。なんなら中に入っておいでよって。そして私も中に吸い込まれて行き、気がつけば3時間もアートに浸る久しぶりののんびり週末の午後をここで過ごすことに。一気にこのまちが好きになった!サッカーだけじゃないんだね。

 

見て下さいと言わんばかりにレストラン・カフェは完全にガラス張り

 

入り口には「見知らぬもの同士の集まり」と謳った看板が!

 

遺産との付き合い方

欲望を伴わぬ勉強は記憶を損ない、記憶したことを保存しない。

-レオナルド・ダ・ヴィンチ

ずっと行きたいと思っていたサルディニア島。地中海への憧れと古代都市に対する敬意を引き連れて念願かなってこの地に来ることができました。ここまで来るとさすがにイタリアというより人も食べ物も中東に近い。気候はベタっとしていて、ワインよりビールが喉には嬉しい。でも街並みはどっぷりイタリアがしみ込んでいて、ミラノやトリノのような上質グランデな道幅や大聖堂、権力で整備された力強いエネルギーは宿っていないけれど、素材や様式、どことなく色っぽいフォルムはやっぱりイタリアだなぁと歩いていて思う。

そしてある週末の朝、まちの中心的ピアッツアに面したカフェでブランチをしながら待ち行く人を観察する。人が街が動いてるところ、ず~っといつまででも見ていられるのは私だけの特技なのだろうか。さてそろそろ自分も街活動に加わらないとと立ち上がり、会計を済ませた後にトイレに向かうために地下へ降りて行くとわっ。そこの壁、天井、飛び出た柱は見るからに遺跡。テーブル席がある改装された上階では見えなかったサルディニアの歴史を感じた。びっくりして店のスタッフに、「ここ遺跡の上に作ったの??」と聞くと「昔は印刷所だったここは」と。「えっ、建てていいんですか?」と驚くわたしに「そんなこと気にしてたらサルディニアでは何も建たないよ」と。古い文化と毎日戯れる暮らしっていいなぁ。看板とか柵とかはなくて、触れる遺跡とそこにくっついてくる言い伝えとしてのストーリー。このゆる~い文化体験の積み重ねが人々の街への深い深い愛情となって記憶の奥底に沈殿していくんだろうなぁ。そして私も再びヨーロッパ文化の虜に。また帰ってきたい。

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建物と建物の間に設置されたガラスの扉から中に入ると、ガーデニング・ショップを突き抜けて奥には教会が。

 

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こちらは遺跡が一応柵越しにディスプレイされている。でも野ざらしで愛想もなく草ボーボーなのがワイルドで良いじゃない。

とちの産物まちの産物

食べることがすべての人を団結させます。

-オスカー・ファリネッティ

透明で薄く張った氷のように空気が軽く繊細なローザンヌからミラノに到着して、濃厚で斑で甘ったるい夜のミラノを嗜む。そしてその次の朝、滞在先のAirbnbは最上階の部屋。ベッドルームの窓(そう観音開きのジュリエットが出てきそうな窓)を開けると、そこには活気に満ち溢れたミラノの朝の活動ノイズとともに広がるヨーロッパ名物の露店市場。好き。忙しく搬入作業のために動き回る人とトラックとが、遠くの真下で万華鏡のように模様を変えていく街のパーキングスポット。飽きない。一通り開店し始めたようなので、ビーサンつっかけて下に降りていく。たまらない、この食べ物のみずみずしさが空気にまで弾け、漂っている朝の感じが。食べられる運命の野菜や果物たちもとても嬉しそうに映るミラノの朝の光景は、希望に満ちている。幸せ。

路上マーケットの果物屋さん
トマトがフルーツと一緒に並べられているところが可愛い。

 

現代版食の買い方
近くのショップでは理科の実験室のような雰囲気で食料を量り売り。食のセンスが多様なイタリア!

別れと出会いの一幕

創造するには、暇でなければならない。

—マルゲリータ・ミッソーニ

久しぶりのミラノに降り立ち、東京と比べて思うことは、なんと夜道が美しいことか。街灯の高さか明るさか、それとも木々が描く影の模様か。とにかく明暗の演出がとてもドラマチックで、あそこの次の角で恋が生まれそうとか妄想してしまう。それも街路地の安全を損なわずに光の芸術が緑とともにふんだんに盛り付けられている街中では、日々の移動や帰宅が楽しい。

人の動きや街の変化を絶妙に紡ぎ出す、道路や交通路線、その脇の散歩道、ベンチ、公園、すべてがまとまり過ぎず、バラバラでもなく、こんなミラノを散策するのは本当に心地が良く、またちょっとしたサプライズにも遭遇できる。だからか、意外なところにぽつっとある店やカフェ、歴史の名残を前に立ち止まったりして、いつもの散歩でも好奇心は尽きない。動くこと自体が魅力的な街は出会いや別れの偶然を生み出し、時代を超えていつまでも再生し続ける地下熱みたいなエネルギーを蓄えているのかもしれない。

夜のミラノが生えるトラム
映画のワンシーンになりそうなトラムの停車駅!
光の演出がなんともカッコいい
ファッションウィークにはキャットウォークなんかさせたくなる!

遊ぶこと休むこと

フェイントは相手を抜くためじゃない。ゴールまでの選択肢を増やすためだ。

-ジネディーヌ・ジダン

その土地の気候が人や社会に与える影響については、一般的によく言われていることだけど、フランス南部の都市リヨンに来てみて自分でも本当にそう思った。

広く奥深い青空と二つの川に照り返される太陽、そして爽やかな山風。パリとは違ったこの地形の魅力からか、リヨンの街を散策する私の足はとても軽やかで、むしろ踊りだしたくなるくらいだ。どこに行っても、街の様々な寸法や人の賑わい具合が本当に丁度良く、人と街、人と人との距離が不快にならない。また初めて訪れた私にもこの街のアイデンティティーが伝わったのが印象的だ。駅を降りて出てきた広場の目の前には巨大な図書館があって、トラムは個人商店が連なるこじんまりとした石畳のストリートに客足を連れて行ってくれる。大通り以外は車の往来も少なく安全に街歩きができて、ぽつぽつと点在するカフェや小さな公園にも遭遇できる。とにかくすべての空間が絶妙に心地よいのである。パリが大好きで、自分にとってのパリは住んでみたい街のひとつ。でもその感覚とは違い、住みやすい街とはこういうことなのかもしれないとこのリヨンの空気がおしえてくれた。受け入れやすい距離感があって、極度に作りこまれた便利さがないこの街の構成を体験してみて、この肌感覚を大事にしたいと思った。

水がリヨンの顔だから
川辺でスケボーしたら気持ちいいかもって誰が考えたんだろう。

 

公園内の本のあげます貰いますコーナー
お散歩のついでにベンチで誰かが置いていった本を手に取る。いいなぁ。